やがて少尉どのが奥の部屋から出てきた。
そのかっこうを見て、おねえちゃんは声を上げた。老人はいつものぼろいすがたではなく、
あの洋だんすの中の写真と同じ、むかしの軍人の正装をしていたからだ。
老人は厳粛な顔をしている。
「これから御真影を礼拝する。心せよ。」
「ゴシンエイ?」
おねえちゃんが不思議そうな顔をした。
「あ、おれ知ってるわ。天皇陛下の写真だろ。」
「ぶわかものお!」
倉持君を少尉がどなりつけた。
「御真影とはただのお写真ではない。おそれおおくも……」
ぼくらは緊張して、気をつけをした。
「天皇陛下が全国の小学校にお貸したまいくだされた、大事な大事なお写真である。御真影を
拝するのは、おそれおおくも天皇陛下を拝するのと同じなのだ!」
シーンとみんな静まった。少尉は満足して続けた。
「それでは、まず最敬礼の練習をする。」
いわれて倉持君が軍隊式の敬礼をした。
「それはちがう。」
老人にいわれ、今度は倉持君は、ナチス式の敬礼をした。高校野球の選手宣誓みたいだ。
「おまえはドイツ人か。あほ。」
口をへの字に曲げて老人は説明をはじめた。
「最敬礼というのは、まず姿勢を正し……」
ぼくらは背すじをのばして足をそろえた。
「正面に注目し、上体をじょじょに前にかたむけるとともに、手は自然に下げ、指先がひざに
たっしたところで止まる。」
頭を下げながら、ただのおじぎではないかと、ぼくは思った。
「そのとき、よけいに頭を下げたり、ひざを曲げたりしないこと。」
あわててぼくは、頭を少し上げ、ひざをきっちりと伸ばした。これはちょっとつらいかも。
「正確にやれば、角度が四十五度になってるはずである。」
そ、そうなんだろうか。
練習を終えたぼくたちは、奥の部屋のほうへ連れて行かれた。そこは、例の高射砲のある部
屋のさらに奥だった。
ドアの上に神社の屋根のようなかざりがついている。しめ縄のようなものが見え、ただの部
屋ではないことがひと目でわかった。
それぞれ、ドアの前で一礼をさせられ、中に入ると、そこは奇妙な空間だった。
まわりのかべは、棺桶のような白木でできていて、とても清潔だ。一方だけが、人形劇の舞
台のように、ちょっとした、だんになっている。だんの奥には、何やら銀行の金庫みたいな扉
がついていて、それもかなり大きい。舞台の横には、あざやかな日の丸の旗がかざられている。
「宮城遙拝!」
少尉どのがさけんだ。
「キュウジョウヨウハイ……。」
おねえちゃんもみんなも、ぼうっとしている。
「皇居をおがめといっとるのだ。」
老人はこまった顔をして東をむいた。ぼくらは少尉どのにならって、東へ頭を下げた。
次に老人は、舞台になってるところへ行き、だんの上、壁についている金庫のようなとびら
に手をかけた。老人は、まっ白い手ぶくろをしている。その手がゆっくりととびらを開けた。
とびらの奥には金庫室のような場所があり、そこから老人は、細長い紫色のふくろを慎重に
とりだした。また、なんだかわからないが、白い布でおおわれた板みたいなものも見える。
奇妙なことだが、ぼくは世田谷公園のモニュメントを思い出していた。
「れーい!」
ぼくらは頭を下げた。
老人の手によって白い布が取りはらわれると、それが古い写真だということがわかった。
「天皇陛下に対したてまつり、最敬礼!」
ぼくはからだを四十五度の角度で曲げた。おねえちゃんも倉持君も、トシキもユカちゃんも
やっている。ゆっくりともとにもどるとき、誰からともなく息をはく音が聞こえた。
「君が代斉唱!」
ぼくら五人は君が代を歌った。
「れーい! そのまま!」
少尉どのは紫色のふくろから桐の箱をとりだした。よく見えないがそうらしい。やがて老人
は、天皇のみことのりを読み始めた。ぼくらは頭を下げたまま、それを聞く。
「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス……」
なにがなんだかわからない。みんなそうだろう。まるで呪文だ。老人はえんえんと呪文をと
なえ続けた。
「重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス……」
呪文は続く。たぶん、さっきのパンフレットに書かれているようなことを言っているのだろ
うなあと、ぼくは思った。あたまを下げたままなのは、なかなかつらい。
「速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス…………
…ギョメイジョジ」
長い長い呪文が終わった。最後だけ理解できた。平和を確立して、帝国の栄光を守るといい
たいのだ。だけど、ギョメイギョジってなんだろう。
「れーい!」
深ぶかと頭をさげてから、ぼくらはようやくもとにもどることができた。おねえちゃんが、
大きく息をするのが聞こえる。
「さて、諸君……。」
少尉どのが、みんなに語りかけた。
「諸君らは、このような光栄に会ったのは初めてのことと思う。」
光栄……。ああそうか。天皇の写真を見て言葉を聞いたわけだ。
「諸君らは大日本帝国の子供である。八紘一宇の魂を広め、皇国の平和をおびやかす敵は、討
ち滅ぼさねばならない。それこそが、おそれおおくも……」
ハッとして、ぼくは背すじをのばした。
「天皇陛下の大御心であらせられる!」
みんな直立不動でぴくりとも動かない。ものすごく緊張している。少尉は満足したのか、お
うようにうなずいた。
「それでは、最後に歌を歌わなければならん。『海ゆかば』でよかろう。『海ゆかば』斉唱!」
ぼくらは声をはりあげ、海ゆかばを歌った。
儀式を終え、居間にもどったぼくらは、ぐったりとつかれた。
「昭和天皇だったな。あれ。」
倉持君がぼそりといった。そういえばメガネをかけていたような気がする。今の天皇とはち
がう。
「御真影ってのは、第二次大戦が終わった時、燃やされたり回収されたりして、すべて無くなっ
たはずなんだ。」
「でも、あったじゃん。」
倉持君にトシキが反論する。
「写真なんてどうにでもなるでしょ。作ったんじゃない?」
おねえちゃんがコキコキと首をふった。そうとうくたびれているようだ。
「いや、でもさ。ただの写真じゃなくって、全国の小学校に貸し出されたみたいなことをいっ
てたぞ。と、するとあれは、燃やされも回収もされなかった、本物の御真影なんだ。」
みんな考えこんでしまった。あの老人は何者なんだろう。
「プールに行こ!」
トシキが大きな声でいった。
「とにかく儀式は終わったんだ。泳がなけりゃそんだぜ。ねえ、ユカちゃん。」
「わたしもそう思います。泳ぎましょうよ。」
一条ユカがニッコリと笑った。
確かにそうだ。プールだプール。
その日、ぼくらは飽きるまでプールで遊んだ。昼間はみんなでお弁当を食べた。少尉どのも
出てきて、サンドイッチをこしらえた。
おなかがいっぱいになると、室内でゲームをした。トシキが持ってきたトランプをしたり、
洋館にあった軍人将棋というボードゲームをやったりした。
軍人将棋というのは、相手のコマの正体を推理しながらやる将棋だ。コマとコマがぶつかっ
た時に、審判が勝ち負けを判定する。少尉どのが審判を引き受けてくれたので、ぼくらはゲー
ムに没頭することができた。
おもしろいことにユカちゃんとか、おねえちゃんとか、女の子のほうが強かった。一番弱い
のは倉持君で、誰とやっても勝てない。これは意外な結果だった。
愉快な一日をすごし、太陽が西にかたむくころ、また明日ということばをかけあって、ぼく
らは家路についた。