八月九日、じりじりと照りつける太陽の下、なんでこんな朝早くからというぐらい、全員さっ
さと集合してしまった。
みんなの合い言葉、それは、プールだった。しかし、洋館から飛びだして、プールのほうに
駆けよったぼくたちは、あぜんとした。水がないのだ。
「何よこれー、せっかく着がえたのにー。」
おねえちゃんが悲痛なさけびをあげた。おねえちゃんもユカちゃんも、今日はスポーティー
な水着を着ている。競争に目覚めたのではなく、きのうやおとといの水着を休ませているのだ
そうだ。
「いったいどうしたんでしょう。」
スカイブルーの水着を着たユカちゃんが、小首をかしげた。
その時、プールの底にどうどうと水が流れ出した。振りかえると、少尉が立っている。
「プールとは水をかえるものだ。」
少尉のことばで、みんなほっとした。そういうことか。
「水がいっぱいになるまで、時間がかかりそう。」
ユカちゃんが、おねえちゃんの腕をつかんだ。倉持君は腕組みし、トシキはちらちらとユカ
ちゃんたちを見ている。
「気をつけえ!」
少尉どのの怒声がひびいた。
「ただいまから、準備運動を行う!」
みんなあっけにとられた。トシキなど、手を肩に当てたり上にあげたり、ラジオ体操みたい
なしぐさをしている。
「まずは“正常歩”からだ。おまえらの歩き方はなっとらん。プールのまわりを進め!」
少尉の指ししめす方向に、ぼくらはぐるぐると歩いた。
「なんだ、その歩き方は。足並みが全然そろっておらん。背すじをのばし、頭を垂直にたもて。
肩の力をぬいて、腕は不自然に振るな。がに股も内股もいかん。かかとをつけてから、足の
裏全体をおろすのだ!」
老人のいうことは、いちいち細かい。これでは足並みなどそろえようもない。
「心を落ちつけて、いっしょに歩くのだ。一億一心、心をひとつとし、国難突破の力となせ。
それこそがおそれおおくも……」
ぼくは、ハッとして立ち止まり直立した。後ろでごちゃごちゃと全員がぶつかって、止まっ
た。
「天皇陛下の御ためである! 何をやっとるかー!」
あわてて、ぼくはまた歩きだした。運動会でもこんな真剣に歩いたことはない。しばらくし
て、なんとか足並みがそろうようになってきた。
「ようし止まれえ!」
老人の号令で全員停止した。
「水はまだ……。」
トシキがささやいた。
「半分だな。」
倉持君が小声でいった。
「次は天つき運動を行う!」
老人の顔はうれしそうだ。
「天つき運動ってなんですか?」
おそるおそるぼくは聞いた。
「こうするのだ。」
老人は、両手を曲げてからだにくっつけ、足をガニ股にして力士のように腰を落とした。
「よいしょ!」
さけびとともに老人は、すばやく両手両足をのばして、大きくばんざいをした。年寄りとも
思えぬ瞬発力だ。
「わかったか、さあやれ!」
老人の指示で、男たちはかまえたが、おねえちゃんは、顔をこわばらせたままだ。口があう
あうといっている。
「じ、じーさん、オトメにそのかっこうは、つらいよ。」
「何がオトメじゃ。銃後をになう少国民として、このくらいできなくてどうする。」
「だってさ、マタをがばーっと……。」
まったくその通りだ。おねえちゃんはともかく、ユカちゃんがかわいそうだ。トシキも倉持
君も気の毒そうにそちらを見ている。
「あたしやりますわ。一億一心ですもの。」
ユカちゃんが決意したようにいった。
「そうじゃ。一億一心、八紘一宇のためである。」
老人は重おもしくうなずく。
ユカちゃんもおねえちゃんも、マタをがばーっと開いた。気の毒なので、ぼくらはなるべく
そっちは見ないようにした。
「よいしょお!」
老人のさけびとともに、みんなばんざいをした。
「もう一回!」
また、マタをがばーっと開く。
「よいしょお!」
も一度ばんざいをする。
「もう一回!」
「よいしょお!」
何度くりかえしたことだろう。へとへとになってきたころに、プールの水がいっぱいになっ
た。
「もうよかろう。泳いでよし!」
ぼくらはプールサイドにへたりこんだ。しばらく休憩が必要だった。
老人が去ったあと、倉持君がつぶやいた。
「なんか、いろいろ厳しくなってきたような……。」
それでも、元気になったぼくらはプールで楽しく遊んだ。太陽はきょうも派手に輝き、水し
ぶきは気持ちよかった。
もぐったり泳いだり水の中を走ったり、声をあげて笑いころげた。
おねえちゃんが、ユカちゃんの水着をひっぱって、ふざけてるのを、トシキと倉持君がやん
やと喜んでいる。その時、洋館のほうから、くらーい音楽が聞こえてきた。
「この音楽……。」
「『不滅のアレグレット』だ。」
おねえちゃんとぼくはプールからあがった。続いてみんなも出てきた。
「あ……。」
ぼくは思い当たることがあった。
「今、何時?」
誰にともなく聞くと、防水の腕時計をしていた倉持君が答えた。
「十一時になるところだ。」
「長崎に原爆が落ちた時間だよ。」
「八月九日、十一時二分か。」
倉持君がなっとくしたようだ。
しばらくして、音楽が鳴り止み、かわりに小さくサイレンの音がした。十一時二分になった
のだろう。
ぼくらは直立し、皇居にむかって黙祷をささげた。
一分間ほどそうしていたあとで、ユカちゃんが声をあげた。
「あ、わたし何をやってるのかしら! 長崎は反対方向じゃない。どうして皇居にむかって黙
祷しているの?」
「そうだよ! あたしも何やってんだろ。」
おねえちゃんも、ぼくも、全員が首をひねった。なぜぼくらは長崎ではなく、皇居にむかっ
て頭を下げたんだろう。
このあと、ぼくらは、なんだか遊ぶ気力をなくしてしまい、洋館の中に入って、少し早い食
事をとった。